虹色夢紀行 第二章4
   
 

 しんと静まった夜。クラウビンの声のみが静寂に映える。
「そのときは我を失って、気づいたときには、もう……。せめて、死者が出ないように力を制御するのがやっとで……」
「ばれたのか?」
「それは、大丈夫だと思います。かなり混乱してましたから、自分の姿を認めたものは誰もいないはずです」
「そうか……」
 ヤルフはそれっきり黙り込む。クラウビンは、心の膿を全部絞り出したように、どっと息をついた。
 異形とは、神話の時代、生命創造に関わったとされる双子の女神に仕えた、六つの民のことだ。彼等はそれぞれに、女神からその力の一部を授かり、それがゆえ現代人にない特殊な器官を持ち得たとされ、異形という呼称に繋がっている。神話では、彼等は女神に取り代わり地上に君臨したが、やがて現れた『七番目の民』にその座を追われ、歴史の表舞台から姿を消したといわれている。七番目の民というのは、現代人であるというのが定説である。
 暫くの沈黙の後、ヤルフは酒でもあおるように茶を一気に流し込み、溜息混じりに呟く。
「しかし、皮肉なものじゃ。お前がここに捨てられていたのを、ワシが拾ったのも、丁度二十年前の今日じゃった。異形の血が、お前をまたここに呼び寄せたのじゃな」
「恨めしいですよ。自分自身に流れる血が」
 クラウビンはやるせなさのあまり、手元の湯飲みをきつく握り締める。
「まあ、そう言うな。あのご時世、いや今もそうじゃが、異形は異端とされとる。七番目たる今の人間からすれば、異形は自分らを脅かす存在にしか映らんからな」
 ヤルフはふと、遠い目をした。
 二十年ほど前、セレ国内で大規模な異形狩りが行われた。本当は、異形などといっても滅多にいるものでもないのだが、実際には多数の人間にその嫌疑が掛けられ、多くの粛正された。まさに、近年稀にみる虐殺事件であった。両親がクラウビンを捨て置いたのも、それを恐れてのことだったのだ。
「くだらないことにこだわるものじゃよ、人間というものは……」
 ヤルフがそう言いかけたとき、ドアの向こう側でコトンと物音がした。
「誰だ!」
 クラウビンは反射的に大声で叫ぶ。すぐに扉を開き、廊下に躍り出るが、そこには誰の姿もない。ふと気がつくと、血走った形相の自分に気づき、クラウビンは自分自身が空恐ろしくなった。これではまるで、神話によって歪められた異形の民そのものではないか。
「ネズミか何かだろう。大丈夫だ、お前のことは誰も気づいとらんよ」
 後から出てきたヤルフが、クラウビンの肩を軽く叩く。クラウビンは心の中を見透かされたようで、気恥ずかしかった。
 部屋へ戻り、椅子に座る。今度は、ヤルフの話が始まった。
「ワシがお前に話しておくことは、お前が連れてきたあの娘のことじゃ」
「あの娘が何か……」
 クラウビンは気を取り直し、ヤルフの話に耳を傾ける。
「二十年前の異形狩りの際、様々な人に嫌疑が掛けられ、その多くが粛正された。それから逃れるため、一部の者はこの国を脱出した。その中に、あの娘によく似た女性がいた」
「誰です、それは」
 思わず身を乗り出し、クラウビンは問う。
「名をメイリといい、セレの旧公家の末裔だったそうじゃ。脱出後はツアイ公国に流れ、そこで大公に見初められ、公妃に納まったと聞いとる」
 北大陸極東部はかつて、マウリ王国連合という連合体により統治されていた。当時のセレはその一員で、現在のセレ北東部を版図とする小国に過ぎなかった。それぞれの王家、公家は、当時から異形の血を引いているという噂が絶えず、それが旧公家末裔の粛正に繋がったとされている。現在、旧王国連合で当時の国体を維持しているのは、ツアイ公国のみとなっている。
「明眸皓歯の美女じゃったよ。この国には珍しい金の髪に紅い瞳、そして炎雀を象った指輪をはめていた。それは今でも良く憶えている」
「なぜ、じいちゃんはそんなことを知ってるんですか」
 当然の疑問。クラウビンはすっかり冷めた茶を、おもむろに口に運ぶ。独特な風味が、落ち着かない精神を引き締めてくれる。
 ヤルフは、些か辛そうに顔を歪ませる。
「ここは国境にほど近く、あの混乱の影響も殆ど受けていなかった。警備も手薄で、亡命経路としては、最適じゃったんじゃ。ワシは彼女に頼まれて、その手引きをしたんじゃ」
「そうだったんですか……」
「まあ、とにかくだ。あの娘がメイリ公妃と繋がりがあると断言できるわけではないが、その可能性が高いことはいえる。国内の旧公家の血筋は粛正されているし、やや訛りのある言葉遣いからみても、近隣の、いやツアイから来たとするのが妥当だと思う」
 一度台詞を切ったヤルフは、改めてクラウビンの顔を見据えた。
「不可抗力とはいえ、そんな事故を起こした後だ。お前もこのセレには居辛かろう? だとしたらどうだ? お前があの娘を、ツアイへ連れていってやるというのは」

 リークンはそっと家を離れ、測候所へと向かっていた。
 女性の夜道のひとり歩きは危険だというが、ことテウリヤに於いてはそういった事例は皆無だった。
 南のティエレンへ向かう街道から分岐する、測候所へ向かう獣道のような小径。百二十年前に観測点として開設されたとき、設置された連絡道。そのとき切り倒された巨木の切り株が、所々に見受けられる。
 カンテラを持ち、リークンはゆっくりと歩いた。
 彼女の歩速の遅さは、その視界がゆえではない。
 心の虚無が、足取りから軽さを奪っていたのだ。
 自分の恋い焦がれていたクラウビンが、異形だという。それも、大勢の人に怪我をさせ、ここへ逃れてきたというのだ。
 リークンにとって異形とは、醜悪な魔物であり、忌むべき存在と固く信じていた。双子の女神を地上から放逐した存在として、多くの七番目の民を虐殺した存在として。それはリークンだけでない、一般的な人の、共通の認識だった。
「アタシ、一体どうしたらいいの……」
 あのとき、部屋から飛び出してきたときのクラウビンの表情が、脳裏にこびりついて離れない。あの恐ろしい形相。総毛立つような殺気。でも、
 クラウビンは幼い頃からの、一番の友人。密かに、思いを寄せていた人。それは、そんな彼を直視してもなお、消し去れない本心。自身の偽らざる気持ち。
 クラウビンを求める気持ちと、拒絶する気持ちとが交錯し、小さな胸を締め上げる。
 誰にも相談できず、答えも導き出せず、自分の心の所在すらつかめない。
 リークンは一人悩み、その夜は仮眠すら取ることが出来なかった。
 

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