虹色夢紀行 第二章1
   
 

「ねーちゃん、ねーちゃんってばよお!」
 屋外からの、騒がしくも元気の良い呼び声に、リークンは窓の方に顔を向ける。
「何よ! フェテ! 用があるんならそっちから来い!」
 多くの書類が積み上げられている部屋の中、リークンは記帳していた筆を止めると、自分の弟に向け、恐ろしく言葉遣いの悪い台詞を飛ばす。すると、外からもそれに負けない台詞が返ってくる。
「何だよ、クソババア。せっかく人が呼んでやってんのに、もうちょっとましな返事しろってんだ」
「うっさいわねぇ。ったく」
 リークンは分厚い簿冊を持ったまま、かったるそうに椅子から立ち上がった。
 年の頃は十七、八、そばかす顔の細面で、長い黒髪は後ろに束ねてバレッタで留めてある。着用しているのは灰褐色のスモックで、胸の辺りに観測局の徽章が刺繍されている官給品だ。顔立ちそのものは美人というほどではないが、茶色の大きい瞳と血色の良い肌は、いかにも闊達そうな雰囲気を娘に与えていた。
 丈の長いスモックを少し気にしながら、扉を開け外に出る。
 差し込んでくる陽光がやけに眩しい。リークンは手を翳し、目を細めた。
「そういえば、朝からずっと中だったっけ」
 監査の近いこの時期、書類の整理を朝から掛かり切りでやっていた彼女にとっては、久しぶりの太陽だった。
 膨大な自然の恵みを全身に浴びながら、リークンは大きくのびをした。
 人の西進を阻む世界の屋根。ティレスライ連峰の麓、雪解け水の流れ込むトセ河のほとりに、テウリヤと呼ばれる集落があった。小さな測候所と、農林業を生業とする十数世帯のひとびとがひっそりと暮らす、閑寂な村だ。国境にほど近く、内陸の主要都市からはやや離れているとあって、国内よりも隣国との繋がりの方が深い。そのせいか、セレへの帰属意識は薄く、政府系の出先機関も、辺境警備とこの測候所を除けば、無いに等しかった。
「フェーテーッ!」
 さっきまで自分を呼んでいた弟の姿が見えない。リークンは頭を巡らした。
「ボケフェテ、ひとを呼びつけといて一体どこいったんだ」
 眼前には、集落へ続く道が大きく弧を描いて延び、主な視界は木立によって遮られている。リークンは下生えを踏み締め、慎重に足を進めた。
「オメーの企みなんざ、お見通しなんだよ」
 子供じみたイタズラだと、リークンは心の中でせせら笑う。どうせどこかの木陰に隠れて、脅かしてやろう程度のことだろう。そう考えていた。
「出て来なよ、今ならゲンコツ一発で許してやるよ」
 ゆっくりと、ゆっくりと足を進めていると、不意に前方でガサッと葉擦れの音がした。反射的に、視線をその音源たる巨木に向ける。
 樹齢数百年は固い楠。セレの建国以前から、ティレスライ連峰を見続けてきた、森の主。その直径は、大人数人が十分に隠れられるほどの幅がある。
 リークンは底意地の悪い笑みを浮かべる。
「そこだなぁ?」
 十分な余裕を持って、ゆっくりと近付く。分厚い簿冊を上段に構え、十分にバネを蓄える。
 木陰に重なって、明らかに人の影が見えた。リークンは確信した。
 その瞬間、幹の向こう側まで一気に走り抜け、振り向きざま、簿冊による一撃をお見舞いした。
「天誅!」
 バシィィィ!
 両腕を駆け上る確かな手応え。しかし……
「へ?」
 そこにいたのは、フェテではなかった。
 フェテより背が高く、フェテより十年は年上。フェテより髪が長く、フェテよりは男前。そして、額に巻きつけられた紅いバンダナ。それは、彼女も良く知る人物だった。
「ク、クラウビン? どうして? 何でクラウビンがいるの?」
「そりゃこっちの台詞だ。リークン……」
 クラウビンは強かに殴られた顔面を押さえながら、ズルズルとよろけ倒れた。
「キャーッ、クラウビン! しっかりしてぇ!」

「……あいつら、遅いのう。一体何やっとんじゃ」
 水差しを持った老人が、窓から屋外を窺いつつ呟いた。
 フェテとリークンの祖父で、名をヤルフという。テウリヤ測候所の所長を任ぜられており、息子夫婦の亡き後、孫と三人でこの村落での観測をひっそりと続けている。
 ヤルフは髭を伸ばしてはいないが、頭髪は年齢不相応と思えるほど豊かだ。体格は小柄だが背筋はピンと伸び、その足腰は未だ衰えを知らない。七十は超えているだろうが、軽く十年は若く見えた。
「……また、くだらんことでもしでかしとんじゃ、ないじゃろうな」
「あの……」
 不意に後ろから声をかけられ、慌てて振り向く。
 少し開いた扉から見目麗しい女性が、顔をちょこっと覗かせていた。先程、クラウビンが連れてきた娘だ。人目を引く容姿に、このあたりでは珍しい金髪、これまた珍しい紅い瞳と、際立った特徴を孕んだ娘は、盲目にも関わらず、しっかりと開いた瞳をヤルフに向けている。
 その瞳にどこか引っかかりを覚えながら、ヤルフは問うた。
「な、何じゃね。どこか具合の悪いところでもあるんか?」
「いえ……、そうではないのですが」
「なら、もちょっとゆっくり休んでなさい。じきにクラウビンも、フェテとリークンを連れて戻ってくる。そう心配しなさんな、こう見えてもセレ人は情に厚いんじゃよ」
 ヤルフはそう諭したが、娘は困った表情を浮かべ、モジモジしながらぼそっと呟いた。
「そうではないんです。実はあの、……お手洗い、なんですけど……」
「おお、すまんすまん! 気が付かなんだ。どれ、案内しよう」
 ヤルフは頬を朱に染める娘に、陽気に笑いかけながら華奢な肩をポンポンと叩いた。
「すっ、すみません……」
「どうして謝ることがあるんじゃ。ワシらに気をつこうとるんじゃったら、無用なことじゃ。さっきも言うたろ? セレ人は、情に厚いんじゃ、ってな」
 穏やかな口調で娘に言い聞かせると、貴婦人にするようにそっと娘の右手を取る。
「……?」
 手を取った娘の指に、妙に硬い感触を覚え、ヤルフはふと確かめた。
「指輪を、しとるんじゃの……」
 プラチナの台座に、濃い緑色の宝石が填め込まれてある。その石は、磨き込まれた上に、何かしらの紋様が刻み込まれてあった。これは石の輝きを楽しむというよりは、何か別の目的を持って造られた代物だった。
 その紋様をチラリと、何気なく見たヤルフは半ば愕然とし、我が目を疑った。
 それは彼のある記憶を呼び覚まし、鮮明に甦らせた。彼は、驚きを隠せなかった。
 娘はヤルフの突然の変化に、即座に反応した。
「ど、どうかしたんですか?」
 娘はひどく怯えたように、ヤルフの手をきつく握った。慌ててヤルフは取り繕う。
「い、いや、何でもないんじゃ。ささ、早く行かんとな。いつまでも貴婦人を待たせては悪いというもんじゃ」 
 

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