虹色夢紀行 第二章3
   
 
 
 娯楽の乏しい田舎の夜更けは、殊の外早く訪れる。
 針の落ちる音すら響きそうな静寂の中、クラウビンはヤルフの部屋の戸を叩いた。
「開いとるぞ」
 クラウビンが音を殺してそっと開くと、ヤルフが気難しそうな表情を浮かべ、こちらに向き直った。
「まあ座れ」
 壁際にある木製のスツールを引き寄せ、クラウビンに勧めてくる。
「どちらの話から、始めますか?」
 性急に切り出すクラウビンを、ヤルフは片手で制する。
「……まあ、そう急くな」
 ヤルフは戸棚から茶器セットを取り出すと、慣れた手つきで茶を淹れ始めた。
 たちまちに広がる芳しい香りと、カップの中に満たされる黄金色の液体。
「トリバス茶だ。今年の、早生ものじゃ」
「じいちゃん、今はそんなことは……」
「解っとる」
 言いながらも少し口を付け、すぐに湯飲みを置く。
 クラウビンは一切手を触れず、次の台詞を待った。
 茶は、自らを落ち着けるためだったのかも知れない。ヤルフは大きく深呼吸をすると、やおら口を開いた。
「まず、お前の話から聞こうか」
 促され、緊張に歯をキッと食いしばり、ひとつひとつ区切るように、クラウビンは語りだした。
「……今日、自分がここに来たとき、観測局の休暇で来たと言いましたけど、実は観測局に辞表を出してきたんです」
「何?」
 ヤルフが訝しげに目を細める。クラウビンは、正面を見据えたまま言葉を続ける。
「このことはもうテウリヤにも伝わっているとは思いますが、首都シャンリでの、総合庁舎崩壊事故はご存じですか?」
「聞き及んどる。建物は半壊し多数の怪我人は出たが、幸いにも死人はいなかったと聞いとる」
「……実は、自分がやったんです。これのせいで、この力がいきなり発動して……」
 クラウビンは苦痛に呻き、バンダナの上から額をグッと押さえる。
「お前、異形が出たのか……」
 苦虫を噛み潰したような表情で、ヤルフは呻いた。

 冴え冴えとした夜。星は分厚い雲に遮られ、また地上から放たれる人工の光もない。
 曇天の測候所夜勤は、今日はリークンがつくことになっていた。
「あーあ、せっかくクラウビンが来たっていうのに、今日はいいことがちっともなかったなぁ」
 ぼやきながらも、身支度を整え荷物をカバンに手際よく詰めていく。明日の朝まで、ひとりで過ごさねばならない。結構寂しい勤務だけに、用意は周到でなければならない。
「出る前に、クラウビンに一声かけていくかな」
 一通り支度を終えると、鏡の前で髪を整える。バレッタで留め、クルリと回ってみた。
「まあ、こんなもんかな」
 少し頬を赤らめ、鏡に映る自分に頷く。
 どこか、心が躍っている。そんな自分にはたと気付くと、何だか照れくさい。
 荷物を肩に掛け、自室を後にする。廊下を隔て、クラウビンにあてがわれている部屋は、斜めの向かいだ。
「クラウビン?」
 ノックをする。名前を呼んでみる。だが、返事がない。
「いないの?」
 そっと戸を引く。少し軋んだ音。静かな空気には、やたらに響く。
 人の気配はなかった。つい今し方までいたというものでもなく、いなくなって結構時間が経っているように思えた。
「こんな時間に、……まさか、あの娘のとこじゃ」
 心当たりを考えて、真っ先に思いついたそれに、リークンは激しく嫌悪した。
 そして、嫌悪した自分に嫌悪した。
「何でだろ、別に悪いことじゃないのに、……あーあ、ほんっとにアタシってば、今日は調子悪いなぁ……」
 自分を自分で笑う。何だかとても寂しい。心の中を虚無が占めるようで、気をそがれた感じだ。
 扉を閉め、部屋を後にする。時間的には少し早いが、もう測候所に向かうことにする。一応その旨を伝えるため、ヤルフの部屋へと向かった。
 廊下の奥から二番目、そのドアの前に立ち、ノックしようと手をあげたとき、中から複数の人の声が漏れてきた。密閉度が高く、遮音効果に優れた構造のため、大変聞き取りにくかったが、良く知る声にリークンにはその主がすぐにわかった。
 ひとりはヤルフ、そしてもうひとりは。
「クラウビン?」
 自分の意志とは裏腹に、扉の向こう側にそっと聞き耳を立てる。断続的に拾える台詞、両者の真摯な声音。
『……この力がいきなり発動して』
『お前、異形が出たのか』
「一体、何を話してるの。異形って、一体どういうことなの」
 ひとり呟きながら、もはや耳が離せなくなっていた。
 

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