虹色夢紀行 第一章3
   
 
 
 娘の墜落より半刻。
 澄み切っていた空には薄い雲が広がり、時折地上への光を遮った。
 まだらに射す光の元で、白皙の美女は未だその目を開かない。
 頬を打つなり、揺するなりして刺激を与えれば、目覚めるのも早いだろうが、なぜかそういう手荒なまねをする気にはなれなかった。
 クラウビンはただじっと、彼女の顔を見つめ続けていた。
 その口からこぼれ出るのはどんな声なんだろう。その瞼の奥の瞳はどんな色をしているんだろう。
 彼女に対するあらゆる期待と想像が、無限に広がっていく。
 そんな思いに浸っていると、時間の流れなど苦にはならない。
 クラウビンは、待った。
 ひたすらに、ただひたすらに。
 無駄とも思える時間を、クラウビンは楽しんでいるようだった。
 やがて、待つのに疲れたのと、鈍痛が徐々に癒えてきた心地よさとで、クラウビンは再び眠りの淵に落ちていった。
 時間にすれば、眠り込んでいた時間は、ほんの一時だったかも知れない。
 唐突に目覚めたクラウビンは、娘を見た。
 微睡みから抜けきらぬ目を擦り、娘を見た。
 瞳を開き、上半身を起こした娘を見た。
「めっ、目が覚めたのか!」
 クラウビンは喜び勇んで、娘の手を取った。
 白い手は小枝のようにか細く、微かなぬくもりが肌を通して伝わった。
「だっ、誰?」
 小鳥の囀りのように、高く清涼な声。だが、その響きには微かな狂いがある。
 手の中の小さな手が、強張るのを感じた。娘の表情に緊張が走り、その紅い瞳が宙を泳いだ。
 クラウビンは慌てて手を離した。
「ごっ、ごめん。いきなり手を掴んだりしちゃって。でも、自分は怪しい者じゃないよ」
 クラウビンは娘の表情を窺いながら、自身の名とこれまでの経緯を説明した。
 聞き終えた娘は、驚きと疑念の入り混じった表情を浮かべ、服の裾をきつく握り締める。
「本当に、わたし、空から落ちてきたの?」
「ああ、間違いないよ……。もしかして覚えてないの? あの時のことを」
 クラウビンの問いに、娘は彫像のように強張り、たっぷりの沈黙の後ようやく一言を吐き出した。
「……わからない」
 その表情が、幼子がそうするように、今にも泣き出しそうに歪む。
「どうしよう……、今までのこと、全然思い出せない……」
 炎の外郭のような紅い瞳から、大粒の真珠が、ポロポロとこぼれ落ちる。萌葱色の布地に落ちる濃緑の斑点が、じわじわと広がっていった。
 娘は、恐らくは落下のショックで、記憶を失ってしまったのだ。
 クラウビンは、反射的に娘の両肩を掴んだ。娘が驚いて、顔を上げる。
「頼むから泣かないでよ。……あの、何て言うか、その……、きっと大丈夫だよ、すぐに思い出すよ、だから元気出して!」
 何の根拠もない、まったくとりとめのない台詞。だが、娘の沈みかけた心を引き戻そうと必死に言った。くりかえし、くりかえし言った。
 暫くして娘は、黙って俯くとぐいっと涙を拭き取り、戦慄く唇を右手で押さえた。
「………」
 そして、何かを呟いた。
「え、何?」
 クラウビンが反射的に問うと、娘は顔を上げ、泣き笑いのような顔で、今度はハッキリとした口調で言った。
「……ありがとう。わたしのことを気にかけてくれて」
「あっ、いっ、いや、自分はただ君が泣いているのを見てるのが辛かったんで、別に、その………」
 しどろもどろにクラウビンが言うと、娘は少し緊張をゆるめ、クスリと笑った。
 クラウビンは年甲斐もなく照れながら、だが娘に対して奇妙な違和感を覚えていた。
 アクセントに狂いがあるのは、彼女が外国人だからだ。それは外見で見当が付く。
 ならば、何が一体違うのか。
 服は切り裂かれているのに、肌に傷ひとつ無いことか。
 何もない上空から落ちてきたことか。
 その人間離れした容貌のせいか。
 そのどれもが正解のようで、間違いのようにも思えた。
 考えあぐねた挙げ句、改めて娘の顔を覗く。
 そこでクラウビンは、はたと気付いた。
 彼女は声に、いや声のみに反応している。その証拠に、クラウビンがその正面から顔を見つめても、まったくといっていいほど無反応で、音を立てた時のみ顔がその方向を向く。
 もしかして、とクラウビンは思う。
 その紅い瞳は……
 残酷な憶測が、脳裏に浮かんだ。
 だが、闇の淵から這い出たばかりの娘に、その憶測を質問するのはひどく躊躇われた。
 沈黙していると、不意に彼女が不安げに声をかけてきた。
「どうしたの? いきなり黙り込んで」
「え? いや、君の顔が綺麗だなぁと思って……」
 思わず口をついて出た言葉に、クラウビンはしまったと思った。
「……ありがとう」
 彼女は笑った。
「わたしも、あなたの顔が見てみたいんだけど、この目は飾り同然みたいだから……」
「ごめん! あの、自分はそんなつもりじゃ……」
「いいのよ。気にしないで。これはクラウビンさんのせいじゃないわ」
 明るく彼女は笑った。
「見えないけど、何となく雰囲気はわかる。風が匂いを運んでくれるし、耳だってちゃんと聞こえるもの。根拠はないけど、多分以前は見えてたんじゃないかって思えるの」
 クラウビンは、言葉を失った。
 自分が彼女を元気づけてやるべきなのに、かえって彼女に気を使わせるとは、自分の無神経さがあまりにも恨めしかった。
 自己嫌悪に落ちかけていたクラウビンに、娘が優しく声をかけた。
「もう、本当に気にしないで。クラウビンさんにいつまでも黙られていると、わたしだってまた暗くなっちゃう。今わたしが頼れるのは、クラウビンさんだけなんだから、ね?」
「ごめん」
「……何だかクラウビンさんって謝ってばっかり」
「そういえば、そうだっけ」
「何だかおかしい……」
 娘はクスクスと笑った。クラウビンもつられて笑いだした。
 彼女の笑い声は心が和む。その笑顔は大輪の花のようで、何も映さない紅い瞳も、紅玉のように深く澄んでいる。だが、逆境をものともしない彼女の内なる強さは、見た目の美しさを遙かに超えるものがあった。その強さに、クラウビンは救われた気がした。
 クラウビンは立ち上がると、娘の手を取った。
「立てる?」
「ええ、大丈夫」
 ゆっくりと手を引き、娘が立ち上がる。
「とりあえず、自分の知り合いの所へ行こう。ここから三十分ほどの所に、テウリヤ測候所っていうのがあって、そこに常駐して観測してる連中がいるんだ」
「測候所?」
「そう。セレの国土観測局の観測点があって、そこで風や雨量を測ったり、一年を通じての気象の変化を観測してる。自分も昔そこで働いててね、それで久しぶりに顔を出そうと思って来てみたんだ」
 娘の服に付いた埃を払い、服の破れを覆い隠すように、自分の外套を掛けてやる。華奢な体にはいささか大きすぎるが、この際贅沢は言っていられない。
「まあ、後のことはそこについてから考えよう」
 娘はクラウビンの腕を持って、側に付き従った。こうなると、まるで恋人同士のようだ。
「ご迷惑かけます」
「いや、困ったときはお互い様ってヤツで……」
 照れ隠しに視線を正面に向けると、春の息吹に誘われてか、極彩色の蝶がひらひらと飛んできた。思わず口を開きかけ、慌ててとどまる。
 何度覗いても彼女の瞳は、何も見えていないとは思えないほど、美しく鮮やかだ。
 何も見えない世界とは、クラウビンには想像もつかないものだ。だが、この娘はそれでも明るく振る舞っている。それもごく自然に……
 暫くは彼女の目となろうと、改めてクラウビンは誓った。
 
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