虹色夢紀行 第一章2
   
 

 時は、四刻前に遡る。
「起きてよ! ツェンギ、早く起きてったら!」
 白い呼気を吐き出しながら、三十路の女性が、木の根本で寝具にくるまった中年男を蹴り起こす。
 緋色の外套を肩に掛け、渋い柿色の旅装束に身を包む、知的な女性だ。金の瞳と金の長髪、透き通るような白い肌に撓やかに伸びた四肢と、その容貌も極めて魅力的だ。
「ほあ?」
 寝ぼけ眼を擦りながら、中年男……ツェンギがムックリと体をもたげる。
 年の頃は三十過ぎ、均整のとれた体躯に整った顔立ちと、外見上は文句のつけようがない伊達男だが、表情の根本的な部分に締まりが欠如している。
 女は両の手を腰に当て、男が起き上がるのを待つ。
 冴えた空気。常緑の林の上に浮かび上がる、薄明るい夜空。まだ月は輝きを失っておらず、幾つかのマイナス等星がその姿を誇示していた。夜明けまで、まだ一刻以上は十分にある。
「まら早いらねえふぁ、もっろゆっふり寝かへろや」
「悠長なこと言ってるんじゃないわよ! メイファが、いなくなったのよ!」
「ふぁ?」
 未だ視線の定まらないツェンギに業を煮やし、目覚まし代わりとばかりに延髄に回し蹴りをかます。
 強烈な一発を食らい、ツェンギは声も出せずそのまま吹っ飛ばされて、常緑樹の細い幹に叩き付けられた。
 美女は、長い金髪を掻き上げながら歩み寄る。
「おはよう、ツェンギ」
「お、おはやう、チャル」
 天地が逆転したまま、ツェンギはやっと覚醒したようだ。
「さっさと荷物しまってちょうだい。トゥホとセルクは辺りを探してるから」
「チャルよ、こりゃ一体どうなってんだ」
 携帯寝具をくるみながら、ツェンギがチャルを仰ぐ。
「どうなってるも何も、メイファがいなくなってたのよ」
「いなくなってたって、お前、気付かなかったのか?」
「……熟睡してたんだもの、知らないわよ! 文句だったら、見張りについてたセルクに言ってよ!」
 しんと静まる早朝の森に、不毛に響く男女の声。眠りを阻害された鳥や獣が、非難がましくガサガサと蠢いている。
 セレ共和国北西部、大陸縦貫街道。
 北方諸国と、セレとを結ぶ主要道だが、水運が劇的な発達を遂げたため、利用する人はさほど多くない。
 その照葉樹の生い茂る道縁の少し開けた場所に、二人が、つい先刻までは五人がいた。五人は北方の山国、ツアイ公国からの旅人で、セレのティエレン市を目指している。いや、正確に言えば、ティエレンの方角を目指していた。明確な目的地はない。ただ、ある託宣の導きを受けて、ひたすら南に進む旅だった。
 不意にガサリと、葉擦れの音が聞こえた。
 鳥や獣ではない。明らかに人為的なものだ。
 二人は口を噤みその方を注視したが、当事者については見るまでもなく分かっていた。
「朝から騒がしいぞ、二人とも」
 低く、年齢を感じさせる、だが、矍鑠とした声。
 トゥホだ。小柄だががっしりとした体つき、黒い瞳はいかにも頑固そうで、禿げ上がった頭と豊かな白髭が、その雰囲気を一段と引き出していた。
 その後ろには、セルクが影のように控えている。二十代半ばの中背の男で、短く刈った金髪が、造作の良い顔立ちに精悍さを与えている。ただ、彼の黒い瞳は、いつもぎらついていて、一種異質な雰囲気に満ちていた。
「貴様!」
 その姿を認めるなり、いきなりツェンギが動いた。
 セルクの華奢とも思える胸倉を掴みあげ、その目の高さまで持ち上げる。
「見張りをさぼってたんだろうが! メイファにもしもの事があったら、どう責任を取るんだ!」
 つばきを飛ばして激昂するツェンギに、セルクは能面のように黙ったままだ。それが彼の神経を逆撫でした。
「何とか言え! お前に付いている口はただの飾りか!」
「手を離せ」
 トゥホがツェンギの手を掴んだ。
「手を離せ」
 二度目にしてようやく顔を向ける。
「し、しかし……」
「いいから手を離せ」
 ツェンギは不承不承に、だが乱暴に手を離した。
 解放されたセルクは胸元を押さえながら、挑むようにツェンギを睨め付けている。
 見えない火花を散らす二人の間に、トゥホが割って入った。
「セルクを責めてもどうなるわけでもあるまい。今は、メイファを捜し出すことの方が先決だ。そのためにも、くだらぬ諍いなど起こすな」
 まだ何か言いたそうなツェンギに、チャルが肘でつついて黙らせる。
「アンタも大人げないわよ。年上らしく、もっと余裕のあるところを見せなさいよ」
 チャルにまでそう言われてしまっては立場がない。ツェンギはむくれた子供のようにそっぽを向いた。
「とにかくだ、セルクがメイファの姿を最後に認めたのが一刻前。荷物も置き去りだし、ひとりで故意に逃亡したなどとは絶対にあり得ない。それに……」
 トゥホの台詞を、チャルが接いだ。
「それに、メイファは見えないんだから、そんなに遠くにまで行けないはず」 
 

戻る
inserted by FC2 system