ナスラーニ湖への道でレイリーは、五日前カイゼルの遺体を葬ったときのことを思い出していた。今や彼女の精神面の均衡は完全に崩されている。少女をさらに美しく見せていた彼女本来の特質、つまり友愛や寛容といったものはどこかへ姿を消し、理性によって抑制されてはいるものの攻撃的な性質が全面的にレイリーを支配していたのだ。

 カイゼルを葬ったあと、遺跡の中をスィーザーと共に調べたレイリーは、今までと同様、壁面に刻まれた古代文字を見つけ出した。もちろん彼女はその言葉を読むことはできない。だが、街で古代文字の解読ができる人を探そうと考えレイリーが文字を書き写していると、スィーザーがその必要はないと彼女に言ったのだった。彼は少女にこう告げたのである。
 「こう見えても、わたしは古代文明に関心があるのです。一応この程度の古代文字の文章は読むことができますよ」
 スィーザーは壁に書かれた言葉を読んで聞かせた。そして、それを読み終えた彼は最後にこう加えたのである。
 「そしてここには、Iプログラムがナスラーニ湖の付近に存在する、と書かれています。セイル君たちも、いずれこの文章を見るでしょうから、急いでナスラーニ湖へ行った方がいいかも知れませんね」
 言っている内容は真実なのだが、これはスィーザーが持っていた知識であって、「書かれている」というのはまったくの虚偽であった。レイリーがセイルらよりも先にナスラーニ湖へ向かうよう意図してのことである。だがこの言葉に危機感を刺激されたレイリーは、すぐさまIプログラムが存在していたというナスラーニ湖へ向けて旅立つことを決意したのだった。

 「レイリー、もうすぐきれいな湖が見えてくるはずですよ」
 スィーザーのこの言葉からほんの少し歩いただけで、その言葉どおりの光景を彼女は目にすることができた。青い湖ナスラーニは晴れわたる空を映しだし、湖面は日の光を受けて美しく輝いている。普段のレイリーならば、恐らくこの光景に心を奪われていたことだろう。
 だが今、湖畔を歩くレイリーの心を支配しているのは、セイル少年に関する事柄のみであった。セイルが本当にドゥニーズへ行くために自分を利用していたのならば、まだそのことに確信を抱けずにいる彼女なのだが、もしそうならば彼は必ずIプログラムを手に入れようとするはずだ。
 それはすぐに分かることだろう、とレイリーは思う。彼が、自分より先にこの場所へ到達している可能性はないであろうと考えられた。当然Iプログラムを入手するのは自分のはずだ。従って、セイルがドゥニーズの力を自分のために使うことを望むなら、必ず自分の前に姿を現さなければならないのである。もし彼がそうするならば・・・、少女は心に誓った。決して容赦はしない、と。
 だが、彼が二度と自分の前に現れなかったなら・・・。レイリーはそうであって欲しかった。そうすれば自分は彼を恨まなくてすむのだ。そのときはIプログラムなどというものはどこかに捨てて、ドゥニーズへの道を閉ざしてしまおう。レイリーはそんなふうに考えていた。

 レイリーがスィーザーの選ぶ道に柔順に従っていくと、意外なほど簡単に目的の場所と思える建物にたどり着いた。灰色の素材で造られた建造物は彼女に無気質な印象を与える。レイリーは今まで見てきたたくさんの遺跡と、どことなく雰囲気が似ていると思った。
 「どうやら、ここのようですね」
 スィーザーが少女の肩に手を置いてそう言う。レイリーは髪をかきあげながらうなずいた。その行為が彼女の意志の強さを表しているのだと知っている者はすでに存在しない。彼女の兄だけが、少女の言動からその心情を察することができたのだ。もっとも、スィーザーはそんなことを気にしてはいない。彼の目的は半ば達せられつつあり、この少女の利用価値も残りわずかとなっているのだから。
 現在、レイリーがいる場所から湖を見ることはできない。ナスラーニ湖と現在地を広大な森が隔てており、セイルが湖を目指して来たとしてもここへたどり着く可能性は低いはずである。レイリーが考えたのはそこまでだった。自分がここへたどり着く可能性についても同じことだったのだ、と彼女が気づくのはもっとあとになってからのことである。
 少女が建物の入り口に立つと、その扉は自然に左右に分かれ、彼女を中へ迎え入れた。レイリーがふり返って見ると、スィーザーは外で待っているつもりらしい。幾日かぶりに笑顔をつくって見せたレイリーは、一人で慎重に建物へと入っていった。

 建物の中でレイリーを迎えたのは、白いコートに身を包んだ少年だった。年は十七か十八といったところだろう。茶色の髪は肩のあたりまでのばされており、口元に浮かべた笑みとは不釣合いな鋭い目つきがなければ、少女にしか見えないだろうとレイリーは思った。先に声を出したのはその少年の方である。
 「僕はリュー=フェイン。帝国の技師の流れをくむものだ。正直なところ、最初にここへ来たのが君のような女の子だったとは驚いたよ。けれど随分と厳しい目をしているようだね。僕が思うに君は、身に破滅を招くような道を歩んでいるのではないのか?そういう君にあれを渡すのは、危険なことに思えるな」
 少年はレイリーを見つめながら、そう言った。
 「・・・」
 レイリーは何も答えない。
 「第一、あれを使うにはドゥニーズのエネルギーが必要になる。君はリリーサーを持っていないようだが、どうするつもりだ?」
 「ドゥニーズの力さえ使うことができれば、リリーサー自体は必要ではないんでしょう?」
 「自信があるようだな。だが、それが事実なら自分自身をよく確かめることだね。手に余る力を得て、道を踏み外した者は大勢いる。その仲間入りしたいわけではないのだろう?」
 リューはレイリーの顔をのぞき込むような恰好で言う。この人は自分をからかっているのだろうか、と彼女は思って憮然とした。声を強めて彼女は答える。
 「わたしには、Iプログラムを渡してもらえない、という意味なのでしょうか?」
 「性急な子だな、君は。別に渡さないとは言ってない。本当は渡したくないが僕には選択する権限がない。プロテクションの対象者以外で最初にここへ来た者に渡す、というのが使命なもんでね。初期化プログラムは君に託そう。でも気をつけることだ。僕は君のような愛らしい少女が破滅するのを見たくはないんでね」
 最後の一言を告げたとき、リューの瞳は真剣なものに見えた。彼は部屋に配置された複雑怪奇な物を手早く操作して、手と同じくらいの大きさの薄い箱を取り出す。箱は透明で、中に銀色の円盤が入っているのが見えた。
 「これがドゥニーズの初期化プログラム、君の言うIプログラムだ。これをダイラス研究所で作動させることによって、ドゥニーズのシステムは始動する。プログラムはドゥニーズの力を供給することによって実行される。僕が教えるべきことはそれだけだ。それでは、忙しい身なもんでこれで失礼させてもらうよ」
 レイリーにIプログラムを手渡すと、リューは部屋から出ていった。彼女はIプログラムを腰にさげた皮袋につめると、急いで外に出た。そしてその少女をスィーザーが笑顔で迎える。
 「どうやら、うまくいったようですね。それでは、ダイラスへ向かいましょうか」
 レイリーはこの言葉に少し驚いた。
 「どうしてダイラスへ行かなくてはならないの?Iプログラムは他人の手に渡しさえしなければいい。別にそれを使う必要など、ないはずでしょう」
 「あなたのお兄さんの意志を無駄にするおつもりですか?ドゥニーズの力を使ってこそ、彼の理想はかなえられるのですよ」
 「え・・・」
 レイリーはこの言葉にかなり困惑させられてしまった。兄の意志、兄の理想。兄の選んだ方法はあまりに強行すぎたのかもしれない。でもそれが彼の理想自体を否定しているわけではないのだ。カイゼルが望んでいたのは平和と繁栄と公正を特色とした社会である。ドゥニーズを利用すればそれが実現させられるかも知れない・・・。
 「確かに彼は、極端を行きすぎた感がありました。でもあなたなら、その理想としたところをより良い形で実現させることができるのではないですか?」
 Iプログラムを手に入れ、すでにレイリーには確たる目的がなくなっていた。あとはIプログラムを海にでも捨ててしまえば、彼女にとってすべてが終わるのだ。だがそれでは意味がない、とスィーザーは思った。人間が行動を起こすためには目的が必要となる。ならばこの少女に新たなる目的を与えてやろうではないか。彼女に新たなる行動を起こさせるために・・・。
 だが、レイリーは静かにうなずいてこう言った。
 「でも、力に頼った支配がドルイを滅亡へと導きました。たとえ力を用いる者にどんな理想があったとしても、その支配を世界が望むことはないはずです」
 スィーザーは苦笑した。自分が観察していたよりも、この少女の理性は、はるかに強いらしい。どんな状況でも、感情に影響はされても、流されてしまうことはない、ということか・・・。
 彼の思考能力は別の方法を模索し、その結果を優しげな言葉にして少女に伝えた。
 「そうですね。しかし、Iプログラムはどうするつもりです?」
 「どこか絶対に見つからないところに捨てます。そうすれば、誰も巨大すぎる力を得るために争わなくてすむから・・・」
 「果してそうでしょうか」
 「えっ?」
 驚くレイリーにスィーザーはこう説明した。ドゥニーズはすでに復活して再始動を待つだけの状態になっているはず。だとすれば何かあればそれが始動してしまう可能性も有り得るだろう。いっそ今ドゥニーズを始動し、その力を用いてドゥニーズ自体を破壊してしまえば良いのではないか?
 スィーザーのこの論法はレイリーの気質に合ったものだった。彼女は初めて、Iプログラムを使用することに価値を感じ始めたのである。

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