虹色夢紀行・第一章 1  初春の瑞々しい叢が、そよ風を受けてさやさやと波打っていた。  暖かな陽光は眠りを誘い、また新緑の煌めきを一段と際立たせる。  原野を越え、森を越えた遙か前方には、天をも遮る高峰が聳え、その頂には神話の時代より変わらぬ白い冠が、人の支配を頑なに拒んでいた。 「ここらで休憩するか……」  セレ共和国北西部。広大な原野を一直線に貫く、テウリヤ街道。  その道端に、クラウビンはドッカリと腰をおろした。  無造作に伸ばされた黒髪、健康的な褐色の肌、長身の割に幅はないが、軟弱な雰囲気は微塵も感じられない。ただ、角の取れた顔立ちは、整いつつも極めて女性的であった。  年の頃は二十前後、旅装束に身を包み、大きく膨らんだ背嚢を背負っている。腰には護身用とおぼしき短剣、そして頭には紅いバンダナを巻き付けていた。  クラウビンは傍らに背嚢を降ろし、横に備わるポケットから手拭いを取り出した。  額ににじむ汗を拭いつつ、雲ひとつない空を見上げる。  空はどこまでも高く、群青はどこまでも深い。  天頂にある陽光は眩しかったが、それでも春という季節柄、禍禍しいほどの強烈さは感じられない。むしろ、母の腕に抱かれているような心地よさがあった。  眼を移すと、黄や白など色とりどりの花を咲かせた草々が風に身を踊らせ、それに誘われるように現れた優雅な舞いを披露する蝶や、せわしく飛び回る蜜蜂が、春の恵みを謳歌している。  長閑で美しく、だが、見慣れた眼には単調で退屈な風景。  欠伸をひとつもらし、途端に瞼が重量を帯びる。  少なからぬ疲労感と相まって、その甘美な誘いに抗えない。 「眠らしてもらおう、ほんのちょっとだけ」  クラウビンは、そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと瞼を閉じた。  が、そのときである。  後ろより突如として吹き付ける、鉛のように重く強い烈風に体勢を崩し、前のめりに手をついた瞬間、上からの強烈な衝撃をまともに食らって、クラウビンは地面に転がった。  目の前に星がちらつき、眼を全開にしているのに、まったく像を捉えることが出来ない。  それから一呼吸遅れて、形容し難い激痛が全身を駆け抜けた。 「ぐ、が、うぅ……」  何事かと考える余裕などない。ただ本能的に、今の状況を把握しようともがく。  つぶれかけの昆虫のようなぎこちない動きながらも、クラウビンはようやく上半身をもたげ、目を擦り眼前を凝視した。  相変わらずのそよ風に揺れる叢、何事もなかったかのようにひらひらと舞う蝶、人間の戯れ事など眼中にない蜜蜂、土ぼこりの舞い上がった乾いた地面、そして、その上に横たわる人間…… 「人間 」  クラウビンは痛覚を無視して、ガバッと起き上がった。  クラクラする頭を必死にさすりながら、突如出現した人の側へと駆け寄る。  俯せに横たわる小柄で華奢な人影。  それは、若い女性だった。  絹糸のように滑らかな黄金の長髪、硝子細工のように細く繊細な四肢、それを包み込む萌葱色の着衣は背の部分が裂け、見るも無惨な状態だった。  クラウビンは少し緊張気味に、俯せに倒れている娘を抱き抱え、反対に起こした。  土ぼこりに塗れた衣服と、女性の顔が陽の元にさらされる。 「これは……」  幻かと思った。  美しいとか、綺麗だとか、そんな凡庸な言葉では語るに足りないほどの美貌が、腕のなかに確かに存在した。  眉は、新しい月にも似た優雅な曲線を描き、その傍らにはそっと閉じられた瞼の端から、長く撓やかな睫毛が伸びている。形の良い唇は、紅をさしたふうでもないのに、薔薇色に染まっていた。輪郭を構成する線はあくまで細く、白い肌は匠の技で磨き抜かれた大理石のように滑らかで、そして艶やか。  伝説に云う双子の女神が本当に存在するならば、きっとこのような容姿に違いない。  だが、目の前にいるのは確かに人間であり、そして、二十歳にも満たぬ未だ少女の面影を端々に残す、北方系人種の娘なのだ。  脳幹が痺れたように、思考が空回りして定まらず、ただ陶酔として娘に見とれていたクラウビンはふっと我に返る。  どこか怪我をしてないだろうか。出血はないようだが、あまりに無惨な着衣が気になる。  娘を楽な姿勢で寝かせると、肩に回していた力みすぎて強張っていた手を抜いた。  僅かながら聞こえる息遣い。それとともに上下する胸郭。  照れくささと好奇心を抑えながら、クラウビンは慎重に着衣の裂けた部分を視診する。  着衣自体の破損は激しかったが、肌はといえば不思議とどこも傷付いておらず、単に気を失っているだけのようだった。  ふと緊張の糸が切れると、何だか疲れがドッと出て、そして様々な疑問が脳裏に浮かびあがった。  この娘はどこから来たのか、何者なのか、そして、どうして上から落ちてきたのか……  いくら考えたところで、それは何一つ答えを導き出せないし、出るわけもなかった。  すべてはこの娘が目覚めなければ解らないことなのに、なぜか気が急いて落ち着かない。  クラウビンは、不思議な感情の高鳴りを覚えていた。  が、徐々にぶり返してきたあの内側から突き上げてくるような鈍痛に、現実に引き戻される。 「それにしても、いったいどこから……」  座りんだまま、身動きの取れないクラウビンは、天を仰ぎ呟いた。  北と南とに分かたれた大地。  古の時代より、かたちを変えぬまま、そして新たな生命を育んだ大地。  幾千のときを経て、神話に云う『七番目の民』の支配を受け入れた大地。  先達たる異形の民はその姿を滅し、今はお伽話のなかにのみ生き続けている。  北大陸……、通称『双子の姉』  その高緯度の東海岸沿いに、セレという共和国があった。  群れる鼠の如く、小さな国々が鬩ぎ合っているなかで、ひときわ大きく、また深い歴史を誇る、極東最大の盟主的存在。  周辺諸国は畏怖を込めて、自国民は畏敬を込めて、セレはこう称された。 『双子の心臓』と。 2  時は、四刻前に遡る。 「起きてよ! ツェンギ、早く起きてったら!」  白い呼気を吐き出しながら、三十路の女性が、木の根本で寝具にくるまった中年男を蹴り起こす。  緋色の外套を肩に掛け、渋い柿色の旅装束に身を包む、知的な女性だ。金の瞳と金の長髪、透き通るような白い肌に撓やかに伸びた四肢と、その容貌も極めて魅力的だ。 「ほあ?」  寝ぼけ眼を擦りながら、中年男……ツェンギがムックリと体をもたげる。  年の頃は三十過ぎ、均整のとれた体躯に整った顔立ちと、外見上は文句のつけようがない伊達男だが、表情の根本的な部分に締まりが欠如している。  女は両の手を腰に当て、男が起き上がるのを待つ。  冴えた空気。常緑の林の上に浮かび上がる、薄明るい夜空。まだ月は輝きを失っておらず、幾つかのマイナス等星がその姿を誇示していた。夜明けまで、まだ一刻以上は十分にある。 「まら早いらねえふぁ、もっろゆっふり寝かへろや」 「悠長なこと言ってるんじゃないわよ! メイファが、いなくなったのよ!」 「ふぁ?」  未だ視線の定まらないツェンギに業を煮やし、目覚まし代わりとばかりに延髄に回し蹴りをかます。  強烈な一発を食らい、ツェンギは声も出せずそのまま吹っ飛ばされて、常緑樹の細い幹に叩き付けられた。  美女は、長い金髪を掻き上げながら歩み寄る。 「おはよう、ツェンギ」 「お、おはやう、チャル」  天地が逆転したまま、ツェンギはやっと覚醒したようだ。 「さっさと荷物しまってちょうだい。トゥホとセルクは辺りを探してるから」 「チャルよ、こりゃ一体どうなってんだ」  携帯寝具をくるみながら、ツェンギがチャルを仰ぐ。 「どうなってるも何も、メイファがいなくなってたのよ」 「いなくなってたって、お前、気付かなかったのか?」 「……熟睡してたんだもの、知らないわよ! 文句だったら、見張りについてたセルクに言ってよ!」  しんと静まる早朝の森に、不毛に響く男女の声。眠りを阻害された鳥や獣が、非難がましくガサガサと蠢いている。  セレ共和国北西部、大陸縦貫街道。  北方諸国と、セレとを結ぶ主要道だが、水運が劇的な発達を遂げたため、利用する人はさほど多くない。  その照葉樹の生い茂る道縁の少し開けた場所に、二人が、つい先刻までは五人がいた。五人は北方の山国、ツアイ公国からの旅人で、セレのティエレン市を目指している。いや、正確に言えば、ティエレンの方角を目指していた。明確な目的地はない。ただ、ある託宣の導きを受けて、ひたすら南に進む旅だった。  不意にガサリと、葉擦れの音が聞こえた。  鳥や獣ではない。明らかに人為的なものだ。  二人は口を噤みその方を注視したが、当事者については見るまでもなく分かっていた。 「朝から騒がしいぞ、二人とも」  低く、年齢を感じさせる、だが、矍鑠とした声。  トゥホだ。小柄だががっしりとした体つき、黒い瞳はいかにも頑固そうで、禿げ上がった頭と豊かな白髭が、その雰囲気を一段と引き出していた。  その後ろには、セルクが影のように控えている。二十代半ばの中背の男で、短く刈った金髪が、造作の良い顔立ちに精悍さを与えている。ただ、彼の黒い瞳は、いつもぎらついていて、一種異質な雰囲気に満ちていた。 「貴様!」  その姿を認めるなり、いきなりツェンギが動いた。  セルクの華奢とも思える胸倉を掴みあげ、その目の高さまで持ち上げる。 「見張りをさぼってたんだろうが! メイファにもしもの事があったら、どう責任を取るんだ!」  つばきを飛ばして激昂するツェンギに、セルクは能面のように黙ったままだ。それが彼の神経を逆撫でした。 「何とか言え! お前に付いている口はただの飾りか!」 「手を離せ」  トゥホがツェンギの手を掴んだ。 「手を離せ」  二度目にしてようやく顔を向ける。 「し、しかし……」 「いいから手を離せ」  ツェンギは不承不承に、だが乱暴に手を離した。  解放されたセルクは胸元を押さえながら、挑むようにツェンギを睨め付けている。  見えない火花を散らす二人の間に、トゥホが割って入った。 「セルクを責めてもどうなるわけでもあるまい。今は、メイファを捜し出すことの方が先決だ。そのためにも、くだらぬ諍いなど起こすな」  まだ何か言いたそうなツェンギに、チャルが肘でつついて黙らせる。 「アンタも大人げないわよ。年上らしく、もっと余裕のあるところを見せなさいよ」  チャルにまでそう言われてしまっては立場がない。ツェンギはむくれた子供のようにそっぽを向いた。 「とにかくだ、セルクがメイファの姿を最後に認めたのが一刻前。荷物も置き去りだし、ひとりで故意に逃亡したなどとは絶対にあり得ない。それに……」  トゥホの台詞を、チャルが接いだ。 「それに、メイファは見えないんだから、そんなに遠くにまで行けないはず」 3  娘の墜落より半刻。  澄み切っていた空には薄い雲が広がり、時折地上への光を遮った。  まだらに射す光の元で、白皙の美女は未だその目を開かない。  頬を打つなり、揺するなりして刺激を与えれば、目覚めるのも早いだろうが、なぜかそういう手荒なまねをする気にはなれなかった。  クラウビンはただじっと、彼女の顔を見つめ続けていた。  その口からこぼれ出るのはどんな声なんだろう。その瞼の奥の瞳はどんな色をしているんだろう。  彼女に対するあらゆる期待と想像が、無限に広がっていく。  そんな思いに浸っていると、時間の流れなど苦にはならない。  クラウビンは、待った。  ひたすらに、ただひたすらに。  無駄とも思える時間を、クラウビンは楽しんでいるようだった。  やがて、待つのに疲れたのと、鈍痛が徐々に癒えてきた心地よさとで、クラウビンは再び眠りの淵に落ちていった。  時間にすれば、眠り込んでいた時間は、ほんの一時だったかも知れない。  唐突に目覚めたクラウビンは、娘を見た。  微睡みから抜けきらぬ目を擦り、娘を見た。  瞳を開き、上半身を起こした娘を見た。 「めっ、目が覚めたのか!」  クラウビンは喜び勇んで、娘の手を取った。  白い手は小枝のようにか細く、微かなぬくもりが肌を通して伝わった。 「だっ、誰?」  小鳥の囀りのように、高く清涼な声。だが、その響きには微かな狂いがある。  手の中の小さな手が、強張るのを感じた。娘の表情に緊張が走り、その紅い瞳が宙を泳いだ。  クラウビンは慌てて手を離した。 「ごっ、ごめん。いきなり手を掴んだりしちゃって。でも、自分は怪しい者じゃないよ」  クラウビンは娘の表情を窺いながら、自身の名とこれまでの経緯を説明した。  聞き終えた娘は、驚きと疑念の入り混じった表情を浮かべ、服の裾をきつく握り締める。 「本当に、わたし、空から落ちてきたの?」 「ああ、間違いないよ……。もしかして覚えてないの? あの時のことを」  クラウビンの問いに、娘は彫像のように強張り、たっぷりの沈黙の後ようやく一言を吐き出した。 「……わからない」  その表情が、幼子がそうするように、今にも泣き出しそうに歪む。 「どうしよう……、今までのこと、全然思い出せない……」  炎の外郭のような紅い瞳から、大粒の真珠が、ポロポロとこぼれ落ちる。萌葱色の布地に落ちる濃緑の斑点が、じわじわと広がっていった。  娘は、恐らくは落下のショックで、記憶を失ってしまったのだ。  クラウビンは、反射的に娘の両肩を掴んだ。娘が驚いて、顔を上げる。 「頼むから泣かないでよ。……あの、何て言うか、その……、きっと大丈夫だよ、すぐに思い出すよ、だから元気出して!」  何の根拠もない、まったくとりとめのない台詞。だが、娘の沈みかけた心を引き戻そうと必死に言った。くりかえし、くりかえし言った。  暫くして娘は、黙って俯くとぐいっと涙を拭き取り、戦慄く唇を右手で押さえた。 「………」  そして、何かを呟いた。 「え、何?」  クラウビンが反射的に問うと、娘は顔を上げ、泣き笑いのような顔で、今度はハッキリとした口調で言った。 「……ありがとう。わたしのことを気にかけてくれて」 「あっ、いっ、いや、自分はただ君が泣いているのを見てるのが辛かったんで、別に、その………」  しどろもどろにクラウビンが言うと、娘は少し緊張をゆるめ、クスリと笑った。  クラウビンは年甲斐もなく照れながら、だが娘に対して奇妙な違和感を覚えていた。  アクセントに狂いがあるのは、彼女が外国人だからだ。それは外見で見当が付く。  ならば、何が一体違うのか。  服は切り裂かれているのに、肌に傷ひとつ無いことか。  何もない上空から落ちてきたことか。  その人間離れした容貌のせいか。  そのどれもが正解のようで、間違いのようにも思えた。  考えあぐねた挙げ句、改めて娘の顔を覗く。  そこでクラウビンは、はたと気付いた。  彼女は声に、いや声のみに反応している。その証拠に、クラウビンがその正面から顔を見つめても、まったくといっていいほど無反応で、音を立てた時のみ顔がその方向を向く。  もしかして、とクラウビンは思う。  その紅い瞳は……  残酷な憶測が、脳裏に浮かんだ。  だが、闇の淵から這い出たばかりの娘に、その憶測を質問するのはひどく躊躇われた。  沈黙していると、不意に彼女が不安げに声をかけてきた。 「どうしたの? いきなり黙り込んで」 「え? いや、君の顔が綺麗だなぁと思って……」  思わず口をついて出た言葉に、クラウビンはしまったと思った。 「……ありがとう」  彼女は笑った。 「わたしも、あなたの顔が見てみたいんだけど、この目は飾り同然みたいだから……」 「ごめん! あの、自分はそんなつもりじゃ……」 「いいのよ。気にしないで。これはクラウビンさんのせいじゃないわ」  明るく彼女は笑った。 「見えないけど、何となく雰囲気はわかる。風が匂いを運んでくれるし、耳だってちゃんと聞こえるもの。根拠はないけど、多分以前は見えてたんじゃないかって思えるの」  クラウビンは、言葉を失った。  自分が彼女を元気づけてやるべきなのに、かえって彼女に気を使わせるとは、自分の無神経さがあまりにも恨めしかった。  自己嫌悪に落ちかけていたクラウビンに、娘が優しく声をかけた。 「もう、本当に気にしないで。クラウビンさんにいつまでも黙られていると、わたしだってまた暗くなっちゃう。今わたしが頼れるのは、クラウビンさんだけなんだから、ね?」 「ごめん」 「……何だかクラウビンさんって謝ってばっかり」 「そういえば、そうだっけ」 「何だかおかしい……」  娘はクスクスと笑った。クラウビンもつられて笑いだした。  彼女の笑い声は心が和む。その笑顔は大輪の花のようで、何も映さない紅い瞳も、紅玉のように深く澄んでいる。だが、逆境をものともしない彼女の内なる強さは、見た目の美しさを遙かに超えるものがあった。その強さに、クラウビンは救われた気がした。  クラウビンは立ち上がると、娘の手を取った。 「立てる?」 「ええ、大丈夫」  ゆっくりと手を引き、娘が立ち上がる。 「とりあえず、自分の知り合いの所へ行こう。ここから三十分ほどの所に、テウリヤ測候所っていうのがあって、そこに常駐して観測してる連中がいるんだ」 「測候所?」 「そう。セレの国土観測局の観測点があって、そこで風や雨量を測ったり、一年を通じての気象の変化を観測してる。自分も昔そこで働いててね、それで久しぶりに顔を出そうと思って来てみたんだ」  娘の服に付いた埃を払い、服の破れを覆い隠すように、自分の外套を掛けてやる。華奢な体にはいささか大きすぎるが、この際贅沢は言っていられない。 「まあ、後のことはそこについてから考えよう」  娘はクラウビンの腕を持って、側に付き従った。こうなると、まるで恋人同士のようだ。 「ご迷惑かけます」 「いや、困ったときはお互い様ってヤツで……」  照れ隠しに視線を正面に向けると、春の息吹に誘われてか、極彩色の蝶がひらひらと飛んできた。思わず口を開きかけ、慌ててとどまる。  何度覗いても彼女の瞳は、何も見えていないとは思えないほど、美しく鮮やかだ。  何も見えない世界とは、クラウビンには想像もつかないものだ。だが、この娘はそれでも明るく振る舞っている。それもごく自然に……  暫くは彼女の目となろうと、改めてクラウビンは誓った。 4  眠気を噛み殺して、ひたすらに足を前に進める。  チャルは、枯れ枝を踏み締め、小さく溜息をついた。  既に夜が明けて久しく、太陽も既に天頂を越えつつある。  チャルの推測に反して、メイファの足取りは杳として掴めなかった。  陽は徐々にその角度を増し、周囲の景色も一変してくる。  時間だけがいたずらに過ぎた。何も進展しないまま、何も掴めないまま。  陽光を受け、輝くばかりの緑に囲まれた街道に、チャルはようやく姿を見せた。  そこではツェンギが木にもたれかかり、チャルが声をかけると力無く手をあげて応えた。 「いた?」 「いや、全然だめだ」  ツェンギの疲労しきった声に、チャルはガックリと肩を落とした。 「あの娘ひとりじゃ、そんなに遠くまで行けるはずないのに……」 「……ぼやいたって、どうしょうもねえわな」  ツェンギの他人事のような言いようが、チャルの癇に触った。 「わかってるわよ! わかってるけど、どう考えたって変よ。第一あの娘は目が見えないのよ!」 「だから、分かり切ったことを今さら並べ立てたって、どうしようもねえって言ってんだよ!」 「あーうるさい!」 「うるさいのはそっちの方だろうが!」 「やめんか! 二人とも!」  後ろから、渋い怒鳴り声が聞こえてきた。振り向くまでもない、トゥホだ。 「何をくだらない言い合いをしておる。そんなことをやっている暇なぞないだろう」 「しかし、この嫁ぎ遅れが……」 「何ですって! この万年独身男!」 「いい加減にしろ!」  弩から放たれた矢のような怒声が飛び、今度こそ二人は押し黙った。 「まったく、子供以下の言い争いなどしおって……。その様子では、メイファの行方は掴めてはおらんのだろうな」  トゥホはますます渋い顔をすると、改めてこちらに向き直った。 「このままでは非常にまずい。宰相や陛下に申し訳が立たん」 「下手すると、罷免されるかもな」  至って気楽に、ツェンギ。チャルはその首を絞めながら、めいっぱい揺さぶる。 「ひ・め・ん、ぐらいで、済むんならいいけどね。へたすりゃ、国がなくなるわよ」 「他人事みたいに言いおって、その気楽さが羨ましいよ」  トゥホは重い溜息をつき、やおら頭を抱える。 「ツアイにいる時の、普段のお前達の仕事ぶりからは想像出来ん、人選を誤ったかのう」  大きく肩を落とすトゥホに、チャルが打って変わって真摯な口調で言った。 「悲観的なことばかり言っていると、本当にそうなってしまいます。あの娘はきっと大丈夫ですよ、何も見つからないということは、裏を返せばどこかで生きているという証拠ではないですか」 「楽観的観測か、ワシはあまり好きになれんな」  トゥホはまたひとつ溜息をつくと、天を仰いだ。 「とりあえず、コールンの領事部で出直しだな。処分を覚悟で、公宮に報告を入れねばなるまい。場合によっては、セレ政府に支援を要請することになるやも知れん」  そこまで言って、トゥホはふと何かに気付いたように、二人に訊ねた。 「そういえば、セルクはどうした。朝からずっと顔を見てないが」 「え? トゥホの方に行ったんじゃないんですか? わたしは最初は一緒だったけど、途中で別れたから知らないわよ」 「……ワシの所には一度も顔を見せなかったぞ」 「オレの所には来てねえぞ。オレはアイツにえらく嫌われちまってるみたいだからな」  三人は、思わず顔を見合わせた。 「じゃあ、あのバカどこ行ったんだよ」  街道筋をはるかに外れた、原生の森の直中。  まだらに落ちる木漏れ日の元、道なき道を行くひとりの影。  中背の男、セルクだった。  照葉樹が多くを占める森の中を、彼は足元の定まらぬ腐葉土を踏み締めて、一歩一歩確実に進んでいた。  西へ、西へと向かって。  あの時。  あの、夜の明け切らぬ朝、彼は見た。  猛烈な光に包まれ、不可思議な力を使って、西の空へ消えたメイファを。  音はしなかった。  聴覚を失ったかのように静かで、だが確かにそれは存在した。  あまりにも不思議で、あまりにも非常識な光景。  その正体も、その理由も、セルクは知らない。  ただ、『メイファが西に行った』、その事実だけがセルクにとって重要であり、そしてすべてであった。  メイファは、彼のすべてであったのだ。 「メイファは、国の道具じゃない……」  セルクは呟いた。  ひどく思い詰めたように上擦った声が、万物すべてを敵と見なすように、呪詛の響きを持って空気を揺さぶる。 「あいつらには、絶対に渡さない」  熱病に冒されたように、戦慄く口をギリリと食いしばり、乱れた呼気とともに言葉を絞り出す。 「……誰にも、渡すものか!」